保科正之を大河ドラマに 署名総数31万3000人余
旧高遠藩主で、徳川4代将軍の補佐役を務めた保科正之のNHK大河ドラマ化運動を進める上伊那8市町村でつくる議員連盟に13日、連盟駒ケ根支部から署名2606人分が届いた。署名総数は31万3000人余となった。伊那市や福島県会津若松市などで組織するつくる会全国組織は26日、正之公生誕400年の2011年実現を目標に、NHKに要請を行う予定。
署名は駒ケ根支部代表の木下力男議員(副議長)が、議員連盟顧問の中村威夫伊那市議会議長に手渡した。同支部は昨年12月の連盟発足後、全議員15人が個人の後援会などを通じて市民に署名を呼び掛けた。木下代表は「旧高遠藩領である中沢、東伊那地域は特に関心を持ってくれている。実現に向けて、署名活動などを通じて一層市民の関心を高めたい」と話した。
署名は連盟内の他市町村からも寄せられる予定。NHKへの要請行動は、全国組織会長の小坂樫男伊那市長をはじめ、村井仁知事、県議会や会津若松市、福島県猪苗代町の関係者も参加する予定。
保科正之公とは・・・(『ウィキペディア(Wikipedia)より』)
慶長16年(1611年)5月7日、第2代将軍・徳川秀忠の四男として生まれる。幼名は幸松。母は秀忠の乳母の侍女で北条氏旧臣・神尾栄嘉(かんお さかよし)の娘・お静(お志津、のちの浄光院)。
恐妻家で知られる秀忠はお静の妊娠を知り、正室お江与の癇気を恐れたためか、お静を武田信玄の次女・見性院(穴山信君正室)に預けた。そこで生まれた子は幸松と名付けられ、見性院に養育された。この事実は秀忠側近の老中・土井利勝他数名のみしか知らぬことであった。まさに「将軍様の御落胤」である。元和3年(1617年)、武田氏ゆかりの信濃国高遠藩主・保科正光が預かり、正光の子という名目で養育される。
お江与の死後、寛永6年(1629年)18歳にして初めて父・秀忠との面会が叶う。寛永8年(1631年)高遠藩3万石の藩主となり[1]、正四位下肥後守兼左近衛中将を拝受。以後、通称・肥後守と称される。
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旧高遠藩主で、徳川4代将軍の補佐役を務めた保科正之のNHK大河ドラマ化運動を進める上伊那8市町村でつくる議員連盟に13日、連盟駒ケ根支部から署名2606人分が届いた。署名総数は31万3000人余となった。伊那市や福島県会津若松市などで組織するつくる会全国組織は26日、正之公生誕400年の2011年実現を目標に、NHKに要請を行う予定。
署名は駒ケ根支部代表の木下力男議員(副議長)が、議員連盟顧問の中村威夫伊那市議会議長に手渡した。同支部は昨年12月の連盟発足後、全議員15人が個人の後援会などを通じて市民に署名を呼び掛けた。木下代表は「旧高遠藩領である中沢、東伊那地域は特に関心を持ってくれている。実現に向けて、署名活動などを通じて一層市民の関心を高めたい」と話した。
署名は連盟内の他市町村からも寄せられる予定。NHKへの要請行動は、全国組織会長の小坂樫男伊那市長をはじめ、村井仁知事、県議会や会津若松市、福島県猪苗代町の関係者も参加する予定。
保科正之公とは・・・(『ウィキペディア(Wikipedia)より』)
慶長16年(1611年)5月7日、第2代将軍・徳川秀忠の四男として生まれる。幼名は幸松。母は秀忠の乳母の侍女で北条氏旧臣・神尾栄嘉(かんお さかよし)の娘・お静(お志津、のちの浄光院)。
恐妻家で知られる秀忠はお静の妊娠を知り、正室お江与の癇気を恐れたためか、お静を武田信玄の次女・見性院(穴山信君正室)に預けた。そこで生まれた子は幸松と名付けられ、見性院に養育された。この事実は秀忠側近の老中・土井利勝他数名のみしか知らぬことであった。まさに「将軍様の御落胤」である。元和3年(1617年)、武田氏ゆかりの信濃国高遠藩主・保科正光が預かり、正光の子という名目で養育される。
お江与の死後、寛永6年(1629年)18歳にして初めて父・秀忠との面会が叶う。寛永8年(1631年)高遠藩3万石の藩主となり[1]、正四位下肥後守兼左近衛中将を拝受。以後、通称・肥後守と称される。
会津藩主
秀忠の死後、第3代将軍家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がった。
寛永13年(1636年)には出羽国山形藩20万石を拝領。村山郡白岩領主酒井忠重に対して起きた白岩一揆の関係者を捕縛し、処刑する。寛永20年(1643年)、陸奥国会津藩23万石と大身の大名に引き立てられる[2]。以後、会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。
慶安4年(1651年)、家光は死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ、「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残した。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めた。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで官軍と戦った。
寛文9年(1669年)、嫡男正経に家督を譲り隠居。
寛文12年(1672年)12月18日、江戸三田の藩邸で死去。享年63(満61歳没)。生前より吉川惟足を師に卜部家神道を学び、寛文6年(1666年)には領内の寺社を整理して神仏習合を排斥しており、神式で葬られた。霊社号は土津(はにつ)霊神。生前に神として祀られる生祠建立の計画があったが、実行される前に没した。墓所は福島県耶麻郡猪苗代町見祢山にある。以後、第2代・正経を除き会津藩主は神式で祀られている。延宝3年(1675年)、墓所に隣接して土津神社が建立され祭神として祀られた。
正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず生涯保科姓を通した。第3代・正容になって漸く松平姓と葵の紋が使用され、親藩に列した。
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秀忠の死後、第3代将軍家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がった。
寛永13年(1636年)には出羽国山形藩20万石を拝領。村山郡白岩領主酒井忠重に対して起きた白岩一揆の関係者を捕縛し、処刑する。寛永20年(1643年)、陸奥国会津藩23万石と大身の大名に引き立てられる[2]。以後、会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。
慶安4年(1651年)、家光は死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ、「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残した。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めた。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで官軍と戦った。
寛文9年(1669年)、嫡男正経に家督を譲り隠居。
寛文12年(1672年)12月18日、江戸三田の藩邸で死去。享年63(満61歳没)。生前より吉川惟足を師に卜部家神道を学び、寛文6年(1666年)には領内の寺社を整理して神仏習合を排斥しており、神式で葬られた。霊社号は土津(はにつ)霊神。生前に神として祀られる生祠建立の計画があったが、実行される前に没した。墓所は福島県耶麻郡猪苗代町見祢山にある。以後、第2代・正経を除き会津藩主は神式で祀られている。延宝3年(1675年)、墓所に隣接して土津神社が建立され祭神として祀られた。
正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず生涯保科姓を通した。第3代・正容になって漸く松平姓と葵の紋が使用され、親藩に列した。
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